久板卯之助

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久板君の追悼   村木源次郎

天城の山麓 村木源次郎 ああ久板君!  

冬枯のうら淋しい山村の墓場から、やがて堀りだされた

寝棺の裡に静寂として眠っている君の姿は、

あり日の平和な顔をそのままに、

物問えば直ちに答えそうである。

薄紅を止めた、頬のあたりは、

暖き心臓を以て抱擁した

なら復活しそうに思われるが……

けれども君は永久に

眠って了っている。  

『年齢四十五才にて色白く高き鼻に銀ぶちの眼鏡を掛け……』

とあった廿四日の夕刊記事に依って、

テッキリ君と決めて了った望月、岩佐、僕の三人は、

今朝東京を出発してから此天城山麓に着す迄、

汽車の窓、馬車の中に、君が生前の奇行逸話を語り耽った。

湯ヶ島の村役場では君の遺留品を見た。

そこから山を辿って一理半、

いま眼前に君の死の姿を眺める。

されど殊更な駭きも嘆きも起らない。

現制度の矛盾残虐に憤り、世の苦しみに倦き果てたお互いは、

「如何にして死に打突らうか」と、いつもの死の方法や、

時と所とを考えさせられている。

いま僕の頭は、君の平和そうな面影に接して、

ただ羨望の感に満ちるのみだ。  

 

僕等が理想とする共産制に些かでも近い、

この質朴醇厚な村の人々の親切な手によって

葬られた君は、実に幸福だ。  

二十一日の夕暮、天城の南麓、

字宮の原の一茶店に憩うた時に、

その茶店の老母から受けた注意も聞き入れず、

『ナーニ僕は雪景色が大好きです』とばかり、

数葉のカンパスと絵の具箱と全財産を入れた

小さな合財袋を肩にして山へ懸った君……。

途中の雪に悩まされて山上御料林の番小屋を訪ねても、

留守の為にまた其所を立ち出た君の様子……そして遂に、

峠の頂上の暗黒と積雪に倒れた君の行動は、

平常の君を知っている僕等をして『どこまでも久板君だ!』

と呼ばせずにおかなかった。  

二十二日の午後、山の人に発見された君の凍死体は喜ぶ者と共に喜び、

悲しむ者と共に悲しむ古き習慣の残った村人の、

しかも戸別から一人宛集った四十余の肩と手に負い抱かれて山を降ろされ、

最も手厚く葬られた。古洋服に銀ぶち眼鏡を掛けた旅の凍死人は、

質朴な村の人々に、何んとなく『善い人だ』との感じを与えたそうである。  

この親切な村人は、

いままた僕等の為に彼方の谷間此方の山蔭の茅屋から集って来て、

誠心からこの寒き一夜を君の火葬に費して呉れる。  

ああ久板君!

僕はいま最後の握手をして君と別れて麓の湯ヶ島に帰る。

岩佐望月の両君は、明日君が最後に倒れた猫越峠へ二里余の嶮を踏む。

月は中空に、仰げば白皚々たる雪の猫越、

伏しては脚下を走る滔々天城の流此處幽玄なる字金山の小丘に、

君は永久に眠り給え。

去らば久板君!

(廿五日夜墓地にて記す)

 

□ヒサイタチャン

ゲンニイチャンカラ、

アマギヤマノ、

エハガキヲ、

モライマシタ。

ウタガ、

アリマス。

オオスギ・マコ

 

コノ山ノオクノオクノ

オクヤマデ ヒサイタオヂサン ネテイマス。

オテテヲムネニ チャントオキ、

雪ヲヒトネニ ワライガオ。

カヘラナイカト キイタラバ、

静カデイイヨトイヒマシタ。


久板卯之助遭難後クロニクル

1922 1月21日 久板卯之助凍死

1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」

1922 2月1日 『労働運動』第2号<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄

<久板卯之助君凍死す> 1月25日  

1922 3月15日 『労働運動』第3号
<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」
<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 

<追悼日誌> 

<性格の異彩(一)>久太
「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」

<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」

<真の革命家> 紀伊 村井林三郎

<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」

<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……

<彼と性欲> 岡野辰之介

<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」

1922 4月15日 『労働運動』4号
<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」

1922 6月1日 『労働運動』5号
<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太
「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」

1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄


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by osugi-sakae | 2011-06-13 20:56
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