「ほっ」と。キャンペーン

後藤謙太郎の死

1 後藤謙太郎の死


「一月二十二日の日も暮れたときである。私が運動社の近くの露地まで帰ると、医師奥山伸先生の懐中電灯の案内で、村木が担架で社へ運びこまれるところであった。 …病床には、

延島英一君母子、岡本文弥、村木が横浜で牛乳配達のころから世話になり懇意にしていた土屋家の人たち、江口渙氏などが付き添ってくれていたが、翌々日午後意識が回復しない

ままに死んだ。一月二十四日で、幸徳たち大逆事件の記念日だったのである。村木がたったいま息をひきとったばかりの、ちょうどそのとき、労働運動社へ年配の一婦人の訪問客があ

った。

玄関へ座るなり、<うちの謙太郎はどこにいるでしょう?> ……

軍隊宣伝事件で巣鴨刑務所へ入獄中の後藤謙太郎君のお母さんで、刑務所からの謙太郎死去の電報によって、九州熊本からはるばる上京、 ……

私たちは後藤君の死をはじめて知ったのであったが、 ……  

村木の方には私たちがあたり、後藤君の方のいっさいは江口渙たちにしてもらった。後藤君は前いったように軍隊への宣伝事件で捕えられて懲役一年に処せられ、その年

の七月に出獄する筈であったが、それを待たず監房で縊死したのであった。」 


近藤憲二。(『私の見た日本アナキズム運動史』1969年6月刊、平凡社)


2 後籐謙太郎の解剖は実際にあったのか 


後籐謙太郎の死因を追及するため、解剖があったという経過は直後の機関誌紙にはまったく書かれていなかった。

しかし、3年後に出版された『反逆者の牢獄手記』に記述があった。

<後藤謙太郎> 

詩 『反逆者の牢獄手記』 19286月発行、行動者出版部

「熊本の人、酒を好み、愛犬を友に、全国を宣伝行脚した人、放浪詩人とも云われ、多くの詩を作った。大正 11年の軍隊宣伝で下獄、大正14120日巣鴨服役中自殺した。在京の同

志に知らせられず、獄吏の手で共同墓地に埋められた事を不審とし、掘り起こして慶應病院で解剖して見たが、やはり自殺であった。大阪では同君の『労働、監獄、放浪の歌』が出版

されている。」


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3  後藤の遺書 『労働運動』紙8(19252月刊)

<労運社から>に近藤憲二が後藤の遺書を掲載している。江口が「彼と彼の内臓」で記述している後藤の遺書も、初出誌『改造』ではそのまま引用され、伏字[ ×の記号化]の部分も

ほぼ踏襲されていることが確認できた。

しかし「無政府主義者としての死に方」が「社会革命家としての死に方」と、「伏字」部が「自選作品集」では恣意的に復元されてしまっていた。

「 ■…後藤君の遺書だけを発表して置く。

『……は戦って来たが、如何せん持って生まれた病気には何うしても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕は堪えないの

だ。無政府主義者としての死に方が決して斯ういうものでないこと丈は僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失われなければならぬ病気のことを思えば、僕は遂に自決の道を

撰ぶよりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ、兎も角も僕は逝く』

之は遺書の全部ではない。この前文が数十行あつたのだが、獄吏のために奪われて永久に葬り去られた。

両君の死に際していろいろ、お骨折下さった諸君、殊に布施・山崎両弁護士、奥山・馬島両医師、及び両君のために態々弔意を表された多くの同志諸君に対し、僕達は茲に心から

の感謝を捧げるものである。 []

<彼と彼の内蔵> 初出誌『改造』 19275月号

「 …………ヽヽヽヽ来たが、如何せん持って生まれて来た病気には何しても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕は堪えな

いのだ。 ×××××ヽヽヽヽヽヽヽヽ決して斯ういうものでないこと丈は僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失わなければならぬ病気の事を思えば、僕は遂に自決の道を選ぶ

よりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ。兎も角も僕は逝く」

<彼と彼の内臓>『江口渙自選作品集』

「 ……僕は戦って来たが、いかんせん持って生まれてきた病気にはどうしても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕はたえ

ないのだ。社会革命家としての死に方が、決してこういうものでないことだけは僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失わなければならぬ病気の事を思えば、僕はついに自決

の道を選ぶよりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ。兎も角も僕はゆく。 …」


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# by osugi-sakae | 2014-03-12 06:47

和田久太郎『獄窓から』 労働運動社版


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# by osugi-sakae | 2011-08-08 01:35

村木源次郎 其の四 「断片」4

「断片」4  萩原恭次郎詩集

明るい空も激越の目には暗い 鉄の固まりのやうに燃えている

我等の手に帰って来た友は それは死体で あった

血肉の友よ ふかく眠れ!

わが意志よ ぎりぎりと目醒め来れ

一切の文句はすでに絶たれているのである。

(村木源次郎に)


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東京監獄  後に市ヶ谷刑務所

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# by osugi-sakae | 2011-06-15 15:13

村木源次郎 其の三 『あくびの泪』 和田久太郎

『あくびの泪』    和田久太郎

序歌  

あくびより湧きいでにたる一滴の 涙よ頬に春を輝け

<その夜の歌>  

1925年1月23日午後3時、突如、部長来たりて村木君病危急と告ぐ。直に、

靴音に守られつつ病管監へと急ぐ。我が監房より遙か隔たれり。  

友の病ひ篤しと聞きつ急ぐなるこの足下の土の冬風  

衰えを偽りかくす勢ぞと眺めしことのあはれ違はず  

噫!友の面貌……。枕頭には獄医、部長、看守、雑役夫、布施氏、山崎氏、沼判事など雑然たり。  

その瞳はや甲斐もなし我が血潮通へと握る手もつれなかり      

激しき麻痺来る--。今日、午後より数回起ると雑役君の教ゆ。  

喰ひしばる歯の間より流れ出づ苦しみの痰血のまじる痰  

ぽろぽろと涙落ちけりわが涙まだ枯れずして残り居にけり       

古田君駆けつく。布施氏と沼判事との交渉なりて責附出獄と決まる。  

世を隔つ煉瓦の底の鉄窓に病みて消えゆく友を見つむる  

赤錆びに似たる光の慄ふなるすすけし電球に我れ眼冴ゆ  

お伯母さん来る。続いて奥山先生、山崎氏と共に駆けつけらる。

……この上は、ただ自動車の用意を待つのみ--。  

心やや落ちつけにけり病監のかかる障子も和みおぼゆる  

病む友はひそと眠れり雑役の尿の響きも安けしと聞く  

やや経ちて、自動車の準備に出て行きしお伯母さん帰り来り「運転手は病人を乗するを拒みてきき入れ

くれず、今 また、白山より寝台自動車を呼ぶことにせり」と悄然たり。古田君と眼を見交わして恨みをのむ。  

白山の方ぞと見つむ眼の前の冬ざれの庭曠野とおもほゆ  

再び麻痺襲い来る--。意識は既になく。手足も次第に冷え行く、ああ………。  

苦しみの餘音か知らず天井の暗きにふるふ蜘蛛の破れあみ   

寝台車来る。午後六時也。担架を守りて表門の広庭に出づ。星二三見ゆれど四辺暗く、

高木に非風聞ゆ。寝台車に 移す時、またまた麻痺起る。うす闇の中に山鹿君の顔を認

む。安谷君の声も聞ゆ。自動車出づ……。さらば村木よ!  

永遠へのこれが別れと冬の夜の獄庭の闇に眼燃え居り   

監房へ帰り行く……。遙かの庭の暗中に古田君の声あり、「大切にしたまえ……」  

監房に帰りてぐいと飲みほせし一と杓の水寒冷の水



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# by osugi-sakae | 2011-06-15 09:55

<久太と渋六 日なたぼっこの会の約束> 堺 利彦

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<久太と渋六 日なたぼっこの会の約束> 堺 利彦

和田久太郎君が去年以来、監獄から私によこした手紙を集めて、繰り返し読んで見た。

そこに『久太と渋六』の面影が(少なくとも私にだけは)非常に面白く現れている。

以下、それを抄録して見る。

「11行『獄窓から』に収録……しぶ六先生を真似て俳句を二三作って見ます。久太。

監獄の鳩もへったぞ秋の雲

秋の蝿がまじまじ俺の顔を見つ

小便で顔うつしけり今朝の秋

十三、九、十一」

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「『獄窓から』


未入力 11行


近作。

雑念に見る雲早し秋の風。

お隣は転房されて夜雲かな。

久太。 十三、十、廿」

「未入力


例によって近作二三。

浴み後のつかれ嬉しき小春かな。

座禅未だ芒が鼻を撫づ思い。

時雨来や麦飯の陽気温かく

噛みためし小石を捨てん冬の風。

十三、十一、六」

「先づ御芽出度う!

『年が又暮れる、僕は五十六になる』というのを見て「へえ__五十六!」と、急に貴君が老人になった様に感じましたっけ。

しかし、考えて見れば、売文社の玄関番だっ僕が、もう三十三ですからねぇ。

……貴君も大切にしていて下さい。再び社会でお目に懸かれたら、

日南ぼっこでもしながら昔し噺のお相手になりましょう。

十四、一、六」


註。この『日南ぼっこ』には由来がある。

 或時(原が刺されたり、安田が殺されたりした頃)私の家の縁側で、和田君と村木君と私と、三人が日なたぼっこをしながら、いろいろ昔話をした事がある。

その時、『飛行機その他続々落ちる小春かな』という私の俳句を、和田君が面白がったりしたついでに、

『梅毒と肺病と禿頭が日なたぼっこする小春かな』という様な即吟をやった。

「僕の監房に、ひさしと高塀の間から、朝廿分ほど日がさし込みます。 一番嬉しい時間です。

初日影一尺ばかり漏れにけり。

その僅かに見渡し得る塀の上の少し離れた處で、時々焚火の煙が見えます。……

憶うかな、焚火に映えし悲痛面。

十四、一、六」


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「村木も死んでしまいました。死顔を見てやって下さった由、御礼申ます。

病監へ行って、その明くる日もう駄目だったんです。ただ、気持ちだけで保っていたような体でしたからねぇ!]

十四、二、十六」 (この村木が即ち、前記日なたぼっこの『肺病』だ。)

「2行未入力

…8行収録 ………句屑片々。

きらりぽたり雫す春のおもみかな。

長閑さが淋し過ると鳴く鶏か。

鶏の声霞んで眼には塀の笞。

<「あくびの泪」に収録>

(母を懐う)

古土瓶洗いて居ればたわいなくぽろと欠けたり母を憶いぬ

苦しみを歯に喰いしばる癖ありし母のその歯もいまは亡せけん

真ごころに神も仏も拝み得ぬ母の産みたる汝ぞと泣かれし

(十四、三、三一)」

「 <「あくびの泪」に収録>

(公判廷にて)

うち集う友と相見て笑み交わす法廷ゆえに楽しかりけり。

裁き給う尊き顔の鼻先きへひょいと飛び乗り蝿欲しぞ思う。

<「あくびの泪」に収録>

帰獄。

夕闇の空を仰げば病む友の青き手見えぬ帰り居るらし。

一茶句集は、いまだに香水の香が残っています。あれは為子夫人の御心づけだろうと思います。

よろしく。 十四、六、十七」

「体は丈夫です。御安心下さい。古田君は『菊の咲く時分に殺して貰いたい』と言ってるそうですが、

僕も秋が好いとは思うが、『桔梗の咲く時分に__』と言いたいですな。しかし獄には、

1行半抹消

桔梗は見当たらないから『赤蜻蛉のとぶ時分に__』と言いましょうよ。

……馘れ馘れ。南京虫のくらいかす。……… 十四、七、八」


「収録 十四、八、十九」

「…… 飯入るる穴で即ち夕涼み。 ……

<「あくびの泪」に収録>

泥を吐く我は鮒かも青葉散る晨の風に深く息吹けり。

朝風の運動場に青々し落葉ひろい頬ずりにけり。

紡績の女工の如く蜘蛛の巣の白きを被ぐ花檜はも。

むくつけき花にしあれど女檜と聞けばやさしもあが妻にせん。

吾が妻の花の檜はおどろおどろ窓をへだててうちやつれ居り。

十四、八、二九」

「差し入れの御馳走、有難く頂戴しました。……<以下『獄窓から』に収録>

いよいよ僕の一番嫌だと思っていた『無期に決定しました。が控訴はしません。

……古田君が時分の直ぐ傍らで縊らるゝのを知りながら、自分は控訴してそれを見ているに堪えないんですよ。

気持ちがね…… それに、……

此頃では『十五年、廿年という刑と無期となら大した違いもあるまい、どうでもいゝや』というづぼらな気に成ってしまった事です。

……  さて、斯うなってくると、いつかお約束した『日南ぼっこ会』も少々空想の霞がかゝった様な感のないでもありませんな。

僕の思うのに、貴君も少なくとも此後ち『十五年間』は生きていて下さらないといけませんよ。

僕もいまから『十五年間』は、何んとかして、衰弱と病気とに(肉体的にも精神的にも)苦闘しながら、一生懸命生きて居ようと思っています。

『日南ぼっこ会』という、すばらしい理想の為に。

……… 赤に成ったら、またぼつぼつ英語と数学とをやりたいと思っています。

英語と数学が一歩々々 進んで行けば、そこへ自分の『生きて行く』という気持ちがよりよく自覚されようとおもってね。

それに新しい社会には、統計が……従って数学が……最も大切だと思うから、

僕の数学が実を結んで、しかもそれがその時の役に立つ……てな殊勝に望もあってね。

ハッハッハッハッハッ。まアどうかして麦飯で英、数を釣り上げたいものです。 

昨日の公判で、……僕は、判事が判決文の前段をくだくだしく読み上げているうちに、秋雨の音をきゝながら独り句作に耽っていました。

そして、言渡しの済んだ時には、確か三句ほど書きつけていました。いまは忘れてしまった思い出せません。

その句を。

秋雨を餞けらるゝ別れかな。

これはその日帰ってから作った句です。帰りの自動車の中では、

見納めの街は秋雨昼灯、

と駄句りました。下る迄には、まだまだメイ句が吐けそうです。……… 十四、九、十一」


堺生云。

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九月十七日、私は和田君に面会して別れを告げた。今後十五年間生きる事は、

僕によりは君の方に可能性が多いと云うと、和田君はいつもの癖の、右の手で顔を一つクルリト撫でて笑った。

又、近々何かの雑誌に『日なたぼっこ会』の事を書く積もりだと云うと、ああそれはあんたの筆に似合った題目だと云って笑った。

私は今それを、こういうズルイ形式で書き現わした。


「和田久太郎君の事ども」

堺利彦

昭和三年二月××日、和田久太郎君が獄中で自殺した。

…… 先ず和田君の遺著とも云うべき『獄窓から』を少し読んだ。

少し読むと、あとからあとからと引続いて読みたくなる。

考えては読み、読んでは考える。手紙と俳句と随筆とが無限の興味と感慨を起させる。

…… 『この上はウンと馬鹿になって、生きられるだけは生きているつもりだ』と云った彼が、

とうとう矢張り自殺した心持ちも分って居る。

私のような、自殺の出来そうにない弱い男は、いろいろ苦しい思いをする。

彼の死んだという報知に接した時、私は胸がピタリとつかえるという感じもした。

久太の一生涯の荷がおりたのだ。

『もろもろのなやみ消ゆる雪の風』辞世の句も嬉しい。
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# by osugi-sakae | 2011-06-15 07:02

村木源次郎 其の二 <とうとう村木は死んでしまった!> 和田久太郎『獄窓から』

<とうとう村木は死んでしまった!> 和田久太郎『獄窓から』

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<市ヶ谷から> 「労働運動社宛・1月24日」

 とうとう村木は死んでしまった! 看守長の話では「昨夜、社に到着後「なお余命を保っていた」と今朝の

新聞は報じているそうだ。 しかし、僕が彼との永別を告げた時には、既に彼は死んでしまって居た。ただ、

その肉体のみが最後のあえぎをあえいでいたに過ぎなかった。しかし、そのあえぎも、もう今頃は完全に

冷却境へ入ったことと思う。 あゝ、ぼくが病院へ馳せつけた時だった。彼は薄暗い陰惨な一室に、やや濁っ

た冷たい眼を大きく見開いて、何者かをじっと見つめていた。僕はにじり寄って、彼の手をしっかりと握った。 

そして、彼の眼の中を見守りつつ、彼の顔の上へのしかかるように僕の顔をすりよせた。  

あゝけれども……けれども……もう彼の眼は見えなかったのだ。僕の全身は、わなわなと慄えて来た。涙が

にじんで来た……。  

「村木ッ……僕だ。……僕ダッ……分からないか……」  

彼の眼が、かすかに動いた。顔の筋肉が、ピクピクと引きつれた。そして、真暗な洞窟の中から響いて来るよ

うな声が、その口から漏れた。

 「ウ……た、たれだ、君は……。君は誰だ。……和田だ……」

 「和田だ……和田久だ……」

 「和田……和田……ウンヨシ……和田君……解かっているさ……」 

僕の涙が、握って居る彼の手の上に滴った。と、  

「泣くな。……ない……たって……しよがあるか。……」  

ポツン……ポツンと、暗い洞窟の中で水が滴るような、その冷たい朗らかな声………。

 「何か、言い残したい事がないか訊いてくれ給え。」  という。僕はまた、顔をすりよせた。

 「何か、言うことはないか……」  

黙っている……暗闇の洞窟の中がシーンとなったような空気が漂った──と

 「ウ……なんにも……ない。」  ポツン……ポツン……と、二た滴。

 いま、僅かに、これだけの事しか書けない。しかし、監獄の門を出る迄の様子は、近くきっと

書いて送る。  

僕は、大杉の時にも渡辺の時にも泣かなかった。親父の時も泣かなかった。が、こんどは泣い

たぞ。村木はあの身体だ。どうせ、今度は長くはあるまいと思ってはいた。……が、僕は口惜

しかった。涙が体中から、しぼれて来た。  悲しいんじゃない……口惜しいんだ。………せめて、

公判廷に起たしたかった。まだ、元気だとばかし思っていたのだ!



リンク
村木源次郎






















































































 
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# by osugi-sakae | 2011-06-15 06:56

村木源次郎 其の一 「彼と彼女と俺」

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「彼と彼女と俺」 村木源次郎

背の高い男と低い丸々した若者が、旗竿を買ひに行つた。

…これが俺と彼れとの知り初めだ。その翌日、此の竿にひ翻したのが例の錦輝館の赤旗だ。

染井の奥に辻氏を訪ねた。

赤旗事件の時、神田錦町の留置所場では彼と …(未入力)
俺は誰れにでも対てになつてゐる彼の努力に?々感心させられた。殊に最近は

、一層彼の円熟味が自然に発達して来た。彼を偏狭傲慢と云ふ一部の評は当らな

い。

 俺は彼の顔を見て居ると、あの少し曲つた鼻と、いやに出張つた顎の肉に不愉

快な気持ちがした。彼女にも同じ様な所があつたが、特に毛深い皮膚と、丸く張

つた肩の肉付きは嫌だつた。彼も彼女もまた俺の凄い眼付きと痩せ細つた面構へ

骨つた顎と頬には随分不愉快な嫌な感じを受けてゐたものと見へて、可成り俺を

敬遠してゐた。

 殺される前日、即ち九月十五日の夕刻、俺は柏木で彼と逢つた。社の諸君がみ

んにな検束されてゐる話や何にかして別れたが、彼は『みんなが出て来たら大阪

に本社を移して活動するも面白い。東京には俺一人頑張つてゐれば大丈夫だらう

。こつちの通信は俺が送つてやる様にして。一つみんなが出て来たら相談して見

たい』と例の計画をまた企ててゐるらしかつた。夕立の烈しく降る中を彼女と俺

は柏木の家を一緒に出た。神楽坂上で別れて俺は社に戻つた。そして其の翌日、

彼と彼女は、永久に柏木へも社にも帰らぬことになつた。代りに俺の胸、俺の精

神の中にいつもゐることになつた。
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# by osugi-sakae | 2011-06-14 20:56

久板卯之助

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久板君の追悼   村木源次郎

天城の山麓 村木源次郎 ああ久板君!  

冬枯のうら淋しい山村の墓場から、やがて堀りだされた

寝棺の裡に静寂として眠っている君の姿は、

あり日の平和な顔をそのままに、

物問えば直ちに答えそうである。

薄紅を止めた、頬のあたりは、

暖き心臓を以て抱擁した

なら復活しそうに思われるが……

けれども君は永久に

眠って了っている。  

『年齢四十五才にて色白く高き鼻に銀ぶちの眼鏡を掛け……』

とあった廿四日の夕刊記事に依って、

テッキリ君と決めて了った望月、岩佐、僕の三人は、

今朝東京を出発してから此天城山麓に着す迄、

汽車の窓、馬車の中に、君が生前の奇行逸話を語り耽った。

湯ヶ島の村役場では君の遺留品を見た。

そこから山を辿って一理半、

いま眼前に君の死の姿を眺める。

されど殊更な駭きも嘆きも起らない。

現制度の矛盾残虐に憤り、世の苦しみに倦き果てたお互いは、

「如何にして死に打突らうか」と、いつもの死の方法や、

時と所とを考えさせられている。

いま僕の頭は、君の平和そうな面影に接して、

ただ羨望の感に満ちるのみだ。  

 

僕等が理想とする共産制に些かでも近い、

この質朴醇厚な村の人々の親切な手によって

葬られた君は、実に幸福だ。  

二十一日の夕暮、天城の南麓、

字宮の原の一茶店に憩うた時に、

その茶店の老母から受けた注意も聞き入れず、

『ナーニ僕は雪景色が大好きです』とばかり、

数葉のカンパスと絵の具箱と全財産を入れた

小さな合財袋を肩にして山へ懸った君……。

途中の雪に悩まされて山上御料林の番小屋を訪ねても、

留守の為にまた其所を立ち出た君の様子……そして遂に、

峠の頂上の暗黒と積雪に倒れた君の行動は、

平常の君を知っている僕等をして『どこまでも久板君だ!』

と呼ばせずにおかなかった。  

二十二日の午後、山の人に発見された君の凍死体は喜ぶ者と共に喜び、

悲しむ者と共に悲しむ古き習慣の残った村人の、

しかも戸別から一人宛集った四十余の肩と手に負い抱かれて山を降ろされ、

最も手厚く葬られた。古洋服に銀ぶち眼鏡を掛けた旅の凍死人は、

質朴な村の人々に、何んとなく『善い人だ』との感じを与えたそうである。  

この親切な村人は、

いままた僕等の為に彼方の谷間此方の山蔭の茅屋から集って来て、

誠心からこの寒き一夜を君の火葬に費して呉れる。  

ああ久板君!

僕はいま最後の握手をして君と別れて麓の湯ヶ島に帰る。

岩佐望月の両君は、明日君が最後に倒れた猫越峠へ二里余の嶮を踏む。

月は中空に、仰げば白皚々たる雪の猫越、

伏しては脚下を走る滔々天城の流此處幽玄なる字金山の小丘に、

君は永久に眠り給え。

去らば久板君!

(廿五日夜墓地にて記す)

 

□ヒサイタチャン

ゲンニイチャンカラ、

アマギヤマノ、

エハガキヲ、

モライマシタ。

ウタガ、

アリマス。

オオスギ・マコ

 

コノ山ノオクノオクノ

オクヤマデ ヒサイタオヂサン ネテイマス。

オテテヲムネニ チャントオキ、

雪ヲヒトネニ ワライガオ。

カヘラナイカト キイタラバ、

静カデイイヨトイヒマシタ。


久板卯之助遭難後クロニクル

1922 1月21日 久板卯之助凍死

1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」

1922 2月1日 『労働運動』第2号<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄

<久板卯之助君凍死す> 1月25日  

1922 3月15日 『労働運動』第3号
<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」
<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 

<追悼日誌> 

<性格の異彩(一)>久太
「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」

<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」

<真の革命家> 紀伊 村井林三郎

<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」

<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……

<彼と性欲> 岡野辰之介

<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」

1922 4月15日 『労働運動』4号
<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」

1922 6月1日 『労働運動』5号
<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太
「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」

1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄


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# by osugi-sakae | 2011-06-13 20:56